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証し:肩を寄せ合って夢に現れた真のお父様とイエス様
西東京教区杉並南教会奈須美保子(一八〇〇家庭)
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杉並南教会では日曜礼拝の際、先輩家庭が「お父様との出会い」を証しする時間を持っています。以下は、教会で家庭部長として活躍する奈須美保子さん(70歳)がそのときに語った証しです。(文責・編集部)
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教会が私の心のよりどころ
一九七〇年六月、私が統一教会に入教してから、今年で四十三年目を迎えます。
私は幼い時、実父を戦争で亡くし、後に母が再婚したため、家族が増えました。しかし実父の死が幼いながらもしこりとして残ったままだったのか、何か虚しく孤独でした。そんな私の心のよりどころがキリスト教会でした。小学校の近くにキリスト教会があって、誰に言われるでもなく日曜学校に通ったり、集会所に牧師が来ると聞けば参加したりしていました。聖句の書かれたカードをもらえるのがうれしくて楽しみに行っていたのです。
高校は親元(静岡県西伊豆町)を離れ、隣り町の親戚の家に居候し、近くの高校に通いました。そこにキリスト教会があったので、何のためらいもなく足を運んでいました。私は神様に「これから私はどうしたらいいのでしょうか?」と、将来のことをよく祈りました。ある日、廊下を歩いていると突然、祈らずにはいられない衝動に駆られ「神様! 神様!」と必死に祈り求めたときに祈りは神様に通じるという実感を持ちました。
このように、私は祈ると答えが与えられる気がして、悩みがあれば人に話すのではなく、聖書を読んだり神様に祈ったりして解決するようになりました。私の実家はキリスト教の背景があるわけでも、これといった宗教をしてきたわけでもありませんが、私はなぜか「神様」に全く抵抗なく育ちました。
高校卒業後は、大学に行く余裕がなかったので就職しました。東京都庁の就職試験を受けると合格し、勤務先は世田谷区役所税務課に配属されました。
昼休みになると、世田谷聖書教会のかたが集会のチラシを配りに来て、私はその集会に参加したのがきっかけで中村信一牧師のいる教会に通うようになりました。私は、中村牧師から洗礼を受けると、クリスチャンになったという責任と自覚が芽生え、今までと同じではいけないと思い、朝、職場に行く前に近くの公園で聖書を読んでから出勤するようにしました。
ある日、聖書を読んでいると、ふと「イエス様は私の罪ゆえに十字架にかかって死んでくださったのだ」という思いが湧き、これを伝えなければならないという思いになりました。
またある晩、突然、激しい腹痛に見舞われ、どうしようもなくなったことがあります。周りには誰もいませんでした。そのため必死で「イエス様、イエス様、イエス様!」と叫ぶと、目は閉じているのですが、遠くから光が私の方に来るのを感じました。その光に安心したのか、朝までぐっすり眠ることができたのです。
私は仕事に励む一方で、中村牧師から「東京神学大学が銀座で夜間神学講座をやっているからそこに行ってごらんなさい」と勧められ、二年間、キリスト教神学の基礎を学びました。神学を習得することで、より聖書に親しみ、祈りの力に確信を抱くようになりました。
こうして聖霊体験をしながら、熱心なクリスチャンとして、親愛なるイエス・キリストを慕い、聖書をこよなく愛し、生かされている喜びを実感していました。
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通っていた教会の牧師が伝道されることによって導かれた私
一九六九年頃、統一教会には宗教部という部署がありました。中村牧師は宗教部のかたと交流を深め、朝食祈祷会に誘われて参加するようになりました。そこには松本道子先生も来られていて、とても親しく話しかけてくださったそうです。それから中村牧師は「原理」を学びに統一教会へと通い、帰ってくると「統一教会の青年たちは清いなあ」と言っていました。
その後、世田谷聖書教会に週一回のペースで天野哲也さん(バングラデシュ国家メシヤ、七七七双)をはじめ数人の統一教会の宗教部のかたが来て「聖書原理」の講義をするようになりました。
この頃、私は統一教会に対し良いイメージを持っていませんでした。「男性も女性も同じ屋根の下で共同生活をしているなんて、変な人たち」「講義後のお祈りが、『イエス・キリストの御名を通して……』ではなく、『真の父母様の御名により……』と祈るなんて、変わった人たち」と思っていたのです。
その一方で、家に帰ると何か気になるのです。そのたびに祈りました。
そんなある日、「死体のあるところには、はげたかが集まる」(マタイ二四・28)という聖句が目に止まり、何かピンと来るものがありました。「死体がある所にハゲタカが集まるように、光(=統一教会)がある所に人は集まるのではないか」と逆説的に考えさせられ、「原理」を聴いてみようと思ったのです。
そして牧師に勧められていた一九六九年十二月二十九日から翌年一月一日の青年を対象にした四日修練会に、中村牧師の夫人と共に参加しました。
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イエス論を通して、イエス様の十字架の苦痛を感じる
四日修練会の講師は、青年に責任を持っていた見渡朗良さん(コスタリカ国家メシヤ、七七七双)でした。イエス論の中で、イエス様が十字架にかかって殺されるときの話を聴いたとき、突然、頭がものすごく痛くなってどうしようもなくなったのです。そして、泣けて泣けて、この講義が終わるまでずっと泣いていました。
ところが、イエス論が終わるとけろっとして、「どうして私は泣いていたんだろう」という具合でした。私はこの四日間で、「原理」に脱帽しました。そしてすぐに「悔い改めの断食をしなければならない」と感じ、四十時間断食を始めたのです。断食が終わると久保木修己会長(当時)から「七日断食というものもあるんだよ」と伺い、すぐに七日断食を始めました。
私は一九七〇年六月、二十八歳のとき献身的に歩む決意をしました。四十日修練会に参加した後、松濤本部の宗教部での活動を告げられました。
しかし、宗教部は中村牧師がいらっしゃるところですし、十年間娘のように育ててくださった牧師がアベルでは、アベル・カインの訓練にはならないのではないかと思い、久保木会長に「私を地方に行かせてください」と願い出たのです。
久保木会長は「それでは、四十日くらい名古屋に行ってきたらいいね。名古屋には神山威先生夫妻(四十三双)がいらっしゃる。お二人ともクリスチャンの背景もあるし」と言われ、名古屋に向かいました。結局、名古屋で七年間歩みました。
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父の記憶のない私が、お父様を父と思えるだろうか
名古屋教会では、とにかく伝道伝道の日々でした。皆、熱心に活動するのですが、私は積極的な性格でもないため、初めは実績も良くありませんでした。天の願いに応えられないので泣きました。すると、その晩、真のお父様の夢を見たのです。
夜空の中に、さらに円形のブルーの空ができていて、それを見上げている私がいました。円形の中ではかわるがわる影絵が現れ、それを見ながら楽しんでいました。そうしていると、その円の中に肩を寄せ合って座っていらっしゃる真のお父様とイエス様が現れたのです。くっきりとしてはいませんでしたが、それがお父様とイエス様であるとはっきり分かるのです。それで私は、「ああー、お父様とイエス様は霊界でも一緒なのだな」と思いました。
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一九七一年一月頃、韓国での修練会に参加しました。献身的に歩んで半年ほどの私を神山教会長が「あなたが行ったらいいね」と送ってくださったのです。
修練会の途中、お父様は兄弟姉妹の座っているところを、中央から縦横に分けられ、十字路のような道(アボジロード)をつくられました。私はその十字路から二人目の位置に座っていました。すると、お父様はその道を歩かれながら私の前に止まって、そのままお座りになると私にお菓子と飴あめを下さったのです。このときの私は、何が起きたのかよく分からないまま、ただ感謝で頂いたように記憶しています。
こうして初めてお父様にお会いしてから程なく、韓国で再びお父様にお会いする機会を得ました。会場に多くの食口が集う中、お父様はみ言を語られました。
私は、み言を聴く傍ら、こんなことを考えていたのです。
「私は、幼いとき父が戦死したので父の記憶がない。だから父親の気持ちも分からない。そんな私が、お父様のことを本当の『父』と思えるだろうか」
そう思った瞬間、お父様が私の横に突然立たれて私を見下ろしながら、勢いよく何かを語られたのです。何と語られたのか全く分かりませんでしたが、そのお姿に「お父様というおかたは、〝父の愛を知りたい〟という私の心を全てご存じなのだなあ」と思ったのです。
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原理講師として歩んだ三年間
一九七〇年二月、愛知県名古屋市守山に研修センターの建設が始まりました。私は建設が始まった頃、名古屋に来ましたから、みんなで木の根っこを引き抜いたことが懐かしく思い出されます。
また、修練所建設のために、宗教法人申請書と登記簿の書類三通をコピーしていたとき、不思議なことがあったと神山教会長が話してくれました。書類を三枚コピーしていると、三枚目に出てきたのは、真のお父様が韓服の上着を召されている上半身のお姿だったというのです。どこを捜しても、お父様のそのお写真はなく、お父様がこの修練所建設を祝福してくださっているのだなと思ったそうです。
この頃、神山教会長は「女性の原理講師を立てたい」と願われ、女性たちが講義演習をすることになりました。私は引っ込み思案な人間で、何かあれば「嫌だ嫌だ」と言っては表に出ることを拒んできましたが、原理講義だけはそうはいかなかったのです。
女性たちの講義が終わると、神山教会長は「萩原さん(旧姓)、あなたが三日修練会の講師を担当しなさい」と言われたのです。それからは、青年向けの三日修練会を担当することになり、『原理講論』を見ながら必死に講義しました。
その後、私は原理講師をする傍らで、学生部に責任を持ちました。ある日、学生のことで悲しいことがあり、外出から帰ってうとうとしていると、真の父母様が霊的に現れて、「あなたは結婚しているの?」など、優しく慰めるように語りかけてくださったこともありました。
当時、私が講義をしていたとき、さまざまな霊的現象が起こりました。
三日修練会でメシヤ論の講義を始めると、一人の女性が泣きわめくのです。あまりにも泣くので、これでは全体の霊界が乱れてしまうと思いました。休憩時間に班長が、その修練生に話しかけると「私はペテロだ」と言うのです。それでペテロのために復帰原理を祈るとペテロが「その女性に入ったが、出て行き方が分からなくなっていた。ありがとう。ありがとう」と言って女性から出て行ったのです。
三日修練会はどちらかと言えば、自分から参加したいと思って来るというより、勧められて参加した人が多かったように思います。それで私は心情的に訴えたいと努めていたら、七日修練会を担当することになりました。
お正月をはさんで行った七日修練会のときです。四日間、なぜか食事が喉のどを通らなくなってしまったのです。食べられず、断食状態ですから声も出なくなっていきました。心配して班長たちも一緒に断食してくれるのですが、理由が分かりませんでした。修練会が終わると、このとき参加した約五十人の修練生の八〇パーセントくらいが神様のために生きる決意をしていったのです。断食状態は命を救うための条件だったのかもしれません。私は修練会後、まるまる二日間寝ていたそうです。
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神様が大嫌いだった夫と神様が大好きな私の出会い
一九七五年一月二十日、一八〇〇双のマッチングのために真の父母様が来日されました。
翌二十一日、伝道活動中に連絡が入り、私たちは着の身着のまま東京の八幡山ボウリング場にバスを乗り継いで向かったのです。既にお父様はおられ、私たちが到着するとすぐにマッチングが始まりました。私は七七七双の祝福が行われた七〇年に復帰されましたので、三十二歳になっていました。
お父様は怨おん讐しゅう同士、極と極を合わせた祝福とおっしゃいましたが、夫は宮崎県の山奥に住む平家の落人の末まつ裔えいで、私は源氏の流れでした。
幼い頃から私の生活には神様がいましたが、夫は伝道された当初、神様が大嫌いで、「信仰は弱い者が持つものだ。だから神という字を使わないでほしい」と言っていたそうです。ただ一点、「自分は歴史の結実体」というみ言が印象に残り、住友金属を辞めて献身的に歩むようになったのです。
その一方で似ている点もあります。私が復帰された時期と夫がこの道を歩もうとした時期は同じでした。しかも、夫は母親を三歳の頃に亡くして父親が再婚していたのです。誕生日も一か月違いの同い年です。似たような身の上ですが、考え方がかなり違いますから、愛を育てるには時間もかかりました。
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地球儀が笑っているようなお父様の満面の笑み
一九七六年頃、私は名古屋で牧師渉外をしていました。そして同年六月一日に行われたヤンキー(スタジアム)大会に牧師を連れてアメリカに向かったのです。
アメリカには一九七二年六月に赴任された神山先生がおられました。ヤンキー大会の動員に責任を持たれていた神山先生は、私と牧師をニューヨーカーホテルにおられるお父様のもとへ連れていってくださいました。
部屋に入るとお父様は、まるで地球儀が笑っているような満面の笑みで歓迎してくださったのです。今でも、そのときのお顔は忘れることができません。
私と牧師はお父様にご挨拶した後、部屋を出ましたが、お父様はドアの所まで、見送ってくださったのです。その後、神山先生から「お父様がドアまで送ってくださるということはそうはない」ということを聞かされ、お父様の牧師に対する思いを感じたのです。
一九九四年三月、十六万人の女性修練会に参加するため渡韓したときのことです。
お父様はみ言を語られながらアボジロードを歩かれ、その通り沿いから二列目にいた私の前に立たれると身を屈か がめて「こういうこともいいんだね」とおっしゃりながら、私の左胸の辺りにさっと触れられたのです。
お父様のみ言が終わると、私の周りに姉妹たちが駆け寄ってきて、そのときのようすを尋ねてきました。あるお姉さんは私に、「以前も、お父様が役事してくださったことがあったから役事ですよ」と言われました。
そういえば、昔、名古屋にいたとき、占い師から「あなたは年を取ったら必ず心臓の病気にかかります」とびしっと言われたことがありました。実際、小さいときから湯上がりは心臓がドキドキしていたり、トラックを一周すると息切れが激しくて苦しかったのです。しかし名古屋にいた時は、健康で歩めたので気にもしていませんでした。
今、七十歳になりますが、何の病気も患うことなく過ごすことができています。
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天国の門を開いてくださった再臨のキリスト、真のお父様
真のお父様は、再臨主であり、救世主であり、メシヤであられます。全てに相当するのですが、私の場合は「再臨のキリスト」とイメージすると心情がストレートに流れます。クリスチャンが「イエス・キリスト」として崇めるように畏れ多いおかたがお父様です。
聖書に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ三・16縲鰀17)とあります。
この聖句を読むと、イエス様の背後の神様の愛を感じてなりません。人類を救うためにひとり子を送られたという、神様から私たちへのプレゼントであると感じてなりません。
クリスチャンのときは、毎日罪の悔い改めの祈りをしていましたが、再臨主に出会うことによって霊肉共の救いの道を見つけ、再び救われた思いでした。
今まで聖書を読むと、一言、一言が神様のメッセージとして力を与えてくれましたが、統一原理の中の復帰原理を語るたびに、歴史の中で「わが子よ、帰れ!」と懇願されてきた神様の声が聞こえるのです。
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