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証し:家庭新聞が開いてくれた道

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 太田博久さんは、一九九一年七月から手書きの家庭新聞を作り始め、B5判二十ページで年四回、発行してきました。これまでの二十一年間で延べ1460ページに上ります。七月十六日から一週間、飯田市美術博物館市民ギャラリーで二十一年間の家庭新聞の一部の展示が行われ、新聞六紙やラジオ局の取材などを受けました。

 以下は、七月二十日、太田博久さんにインタビューした内容です。(文責・編集部)

ツ黴€

──二十一年間も家庭新聞を作り続けてこられたとは、本当に素晴らしいですね。どうして、家庭新聞を作ろうと思ったのですか?

ツ黴€家庭新聞太田博久さん(以下、太田) 

 ここに展示してある家庭新聞を見ていただければ分かると思いますが、皆、私たち家族の日常生活が書かれています。

 しかし、私が本当に伝えたかったのは統一運動でした。

 実は、私たちは夫婦共に拉致監禁被害者なのです。二〇一〇年十月二日に、梶栗玄太郎会長の名前で正式に忠孝賞(拉致監禁された後、信仰を守って戻ってきた教会員に贈られた賞)を、私も妻も頂きました。

  ですから、家庭新聞を作り始めた本当の動機は、それ以外、氏族に対してどうすることもできなかったからなのです。一九九一年、祝福家庭は氏族的メシヤとして還故郷をする摂理でしたが、私の家も妻の家も、真っ暗なトンネルの中に入れられたような状況で、氏族復帰など夢のまた夢でした。全く身動きのできない状態だったのです。

 そのような暗闇の中では、何か道がないかと祈祷するしかありませんでした。そして、ずっと祈っているとき、矢野治佳伝道局長(現、伝道教育局長)から、ある人が作っていた家庭新聞を渡されたのです。

 そのとき、体に稲妻を落とされたような、ものすごい衝撃を受けました。

 

── 拉致監禁に遭われたのは、いつ頃ですか?

太田 一九七〇年代後半のことですが、妻は、自宅に閉じ込められ完全に身動きが取れない状態にされました。私は法学部に入学しました。そこの憲法の教授が共産主義者であり、また私の親族だったのです。両親をはじめ、私の家族や親戚は大学教授が間違ったことを言うはずはないと、その教授の言うことを全て信じてしまい、反対牧師の所に連れていかれて説得に遭い、辛うじてはだしで逃げてきました。監禁されていた期間は短いのですが、かなり長い間、尾行されたり、大学内で監視されていました。

 私の大学生活や伝道活動、学内で話したことなどが記録され、そのデータが親の所に送られていました。実家には反対牧師から提供された多くの資料がありました。反対牧師に百万円くらいは払っていたようです。

 そのような中で、親に手紙を書いたり、プレゼントを贈ったりしましたが、親からは一通も手紙をもらったことがありませんでした。何を送っても送り返され、時間がたったら腐るケーキのような生ものでも、送り返されてきたのです。

 ところが、家庭新聞を送ったら、なんと送り返されなかったのです。

 孫の写真などが載っている家庭新聞は、一回送っても、二回送っても、三回送っても、戻ってこないのです。

 そして、一年、二年、三年、四年、五年、十年続けた、二〇〇〇年を迎えたときに、両方の両親からほぼ同時に「帰ってきなさい」と言われたのです。

 それは、ものすごい衝撃であり、喜びでした。還故郷と言われながら、私たちは九年間、諏訪教会にお世話になりました。私の故郷の酒田(山形県)の教会でも、妻の故郷の飯田教会でもなく、その中間の地で時が来るのを待っていたのです。

 九年間、耐え忍んで、家庭新聞を作りながら、酒田と飯田に送り続け、二〇〇〇年になって、急に良くなったのです。家庭新聞が道を開いてくれたのです。

ツ黴€

── それまでは、帰省もできなかったのですか?

太田 私の両親のいる酒田の家に子供を連れて帰っても、犯罪者を迎えるような雰囲気で

した。「おまえは、親を捨てた」と言われ、何も話せない状況だったのです。 妻の実家は、それよりは少しましでした。諏訪にいる期間、飯田までは約一〇〇キロでしたが、週一回は飯田を訪ねて仕事(整体)をすることで、還故郷の象徴的な条件を立てました。

 二〇〇〇年に、双方の両親から帰ってくるように言われた後、酒田に二年間、還故郷し、その後、飯田に来たのです。

 酒田に帰ってみると、不思議なことに、私が伝道したわけではありませんが、親族に食口がいました。氏族がカインとアベルに完全に分別されていたのです。

ツ黴€

──統一運動を紹介することができない状況で家庭新聞を作るときに、意識していたことは何ですか?

太田 子供たちのようすとか、日常の出来事を書くことに徹底しました。教会のことは何も書かず、子供や自分たち夫婦のことだけを書くことに努めたのです。

 下手でもいいので、なるべく子供たちの字をそのまま、誤字があろうと、絵が下手であろうとそのまま掲載したのです。なぜならば、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に生活していれば、それらを全て見るわけですから。

 ですから、手書きで、なるべく自然体を心掛けました。文章で何かを訴えようとか、読んだ人が「伝えられている」と感じるとか、そのようなことがないようにしたのです。

 本当は、伝えたくて、伝えたくてたまらないのですが……。

ツ黴€

── 記事の素材はどうやって集めるのですか?

家庭新聞実物太田 紙面を作るために、私はいつもデジカメを持ち歩いています。とにかく写真さえたくさん撮っておけば、記事はちょっとした空いた時間に書くことができます。写真を見ていると、いろいろと書くことが思い浮かぶのです。日常の何でもないことが記事になります。 妻は、私よりもきちっと紙面や文章の構成を考えて丁寧にやっています。妻も娘たちも、写真はよく撮りますね。

 ですから、記事に困ることはありません。全二十ページの構成を考えたり、記事をボツにしたりするのも編集長である妻です。

ツ黴€

──一九九一年に家庭新聞を始めたとき、長女が二歳だったと伺いましたが、現在も娘さんは記事を書いているのですか?

太田 今、長女は韓国に住んでいますから、原稿を書く用紙を送ったり、清平に行ったときに会って渡したりしています。そうすると、記事を書き込んで送り返してきます。

 次女は山梨の大学に通っていて、しょっちゅう家に帰ってくるので、そのときに書いています。最近やっと就職が決まったのですが、決まるまでに七か月もかかりました。ですから、その苦労を忘れる前に記事に書き残しておくようにします。

 高校受験にしても、大学受験にしても、できる限りすぐに書かせます。そうしないと、一日一日と、どんどん薄れてしまいますから、早く書かなければなりません。

ツ黴€

── 娘さんたちは、記事を書くのを嫌がらないのですか?

太田 子供たちが、「なんでこんなの書かなきゃならないの?」とか「面倒くさい」とか言う時期もありました。娘三人で子供の頃は大変でしたが、今はすごく仲が良いです。三人で家庭新聞を見ているときは、三つの頭が並んで大笑いしています。

 今は、親が強制しなくても「○○のこと書くから新聞(用紙)ちょうだい!」とメールで請求が来たり、用紙をコピーして好きな時に書いて届けてくれるまでになりました。ひらがなを覚え始めたころから、皆、書いているわけですから、もう慣れたもんですね。

ツ黴€

── 家庭新聞はご両親以外にも配布していますか?

太田 そうですね。親には必ず郵送し、仲間や氏族には機会があるときに手渡しています。

 兄弟にも時には渡しますが、親ほど関心がありません。まず、親と兄弟では見る動機が違います。縦と横の違いがありますね。ですから、あえて定期的に送ることはしていません。

 すごく熱心にやると、自分の子供を誇っているように見えて、逆に勘違いされかねません。ですから、兄弟に渡すときには気を使いますね。

ツ黴€

──太田さんは家庭新聞を長年続けているということで、多くの新聞やラジオ、またNHKのテレビ番組などでも取り上げられていますが、その中で特に印象に残っていることはありますか?

太田 テレビの取材で長野放送の女性アナウンサーが自宅に来てくれたことがありました。そのとき三女が、「家庭を誇りに思う」と、何気なく言ったのです。そしたら、それを聞いた女性アナウンサーがその場で取材中に泣き崩れてしまったのです。

 私はびっくりしました。それは生放送ではなかったのですが、後日、その理由を聞いてみると、二か月ほど前にその人のお父さんが亡くなったということでした。そのお父さんに感謝の言葉も述べないまま、お父さんをあの世に送ってしまったことが悔やまれたということでした。きっと、私たちの子供の幼いときから成長するまでが全て記録されている家族新聞を見ながら、自分の人生と重ね合わせる部分があったのでしょう。

 私たちはよく「真の家庭」とか「理想家庭」と言いますが、世の中の人がそれをどれほど願っているかということを思い知らされました。

 ラジオの取材を受けたときにもアナウンサーが泣いてしまったことがあります。

 これまで、二十一年間作ってきましたが、子供たちが赤ちゃんのときから祝福を受けるまでの歩みが全て記録されるので、三人の娘がお嫁に行くときには創刊号から全て持たせようと準備しています。長女はもう祝福を受け、今年家庭を持つ予定です。

ツ黴€

──掲載した記事で特に印象に残っているものはありますか?

太田 それは、さまざまありますが、私と妻の両親合わせて四人のうち三人が亡くなった現在、親と私たち夫婦と子供たちの三代で撮った写真こそが本当の宝だなと思います。

 今回の展示会のタイトルは「親子三代 心の触れ合い展」です。これは私たちのところに取材に来たある新聞の記事で見出しに使われた言葉です。

 先ほどもお話ししたように、この家庭新聞は拉致監禁が全ての出発になっています。それは一言で悲惨でした。うちの子供たちは小さい頃、酒田のおじいちゃん、おばあちゃんに一回も抱っこしてもらったことがないのです。

 そこから、約十年後に酒田に帰ることができ、飯田に来て今九年目です。飯田に来てからは驚くことが本当にたくさん起こりました。多くのマスコミ、テレビ、ラジオに取り上げられ、またこの地で何人か伝道することもできました。このように展示会ができることも、二十一年前から見れば夢のようなことです。

 そして、何よりも二〇一〇年十月二日に忠孝賞を頂いたのは、思いもしなかったことです。神様は本当に全てを見ていてくださり、埋もれていた者に光を当ててくださいました。

 再臨のメシヤは一度しか来られません。これからも、父母様が地上にいらっしゃるときに私たちが祝福家庭としてどう暮らしたかを記録に残し、それを自らに、そして世の中に問うていきたいと思います。

ツ黴€

──ありがとうございました。


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Category: 特集