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証し:80歳で最前線を歩む婦人リーダー「み旨を愛し、親孝行することが私の喜び」
九州の南に位置する鹿児島県・鹿児島教区霧島開拓教会で、婦人の先頭に立って活躍する中洲フミヱさん(80歳)。中洲さんは、若い青年に負けず最前線に立ち、リュックの中に自叙伝二十冊をいつも持ち歩き配布活動や伝道活動に励んでいます。今回、そんな中洲さんに信仰路程を伺いました。(文責・編集部)
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娘を通してみ言に出会う
私の家族は、最初に娘(坂本みどりさん)がみ言に出会い、娘から私が伝道され、間もなく夫が導かれました。
広島県に住んでいる娘が「原理」を聴き始めると、何度も私に「『原理』を聴いてほしい。すごいことなんだから」と連絡してきました。
しかし、スーパーで働いていた私は忙しく、ほかの宗教に対する関心もありませんでした。夫は昔、神主をしていたこともあり、夫婦でご先祖様を大事にして、供養も欠かさず行っていましたから、それで十分でした。娘が電話越しに「セミナーがあるんだけど……」と言ってくるのですが、私は「深入りしなさんなよ」と言い聞かせていました。
ある日、娘が肺炎を患い入院したと連絡が来ました。私は看病するために広島に向かったのです。病院に着くと、娘は、苦しくて寝ることもできず、廊下の椅子にもたれるようにしていました。私を見つけると娘は「お母さん、一生のお願いだから、教会でみ言を学んで!」と泣きながら三回も抱きついてきたのです。
私は「そんなに言うなら……」と知らない土地で一人で行くのは抵抗がありましたが、教会に行くことにしました。すると、そこで聴いた内容が私の心にはまってしまったのです。霊界の話を聴いたとき、「義人聖人でさえも中間霊界におられるなら、私はいろいろあったから地獄だなあ。そうしたらご先祖様も地獄ではないか。これは大変だ」。そう思うと、その先が聴きたくて、自分が反対していたことも忘れ心が惹かれていってしまいました。
看病のために勤め先から一週間の休暇を取ってきましたが、結局、休みを三週間に延長して、毎日教会に通い「原理」を学びました。最後の日には、もうこの道を行こうと決めて入教したのです。この日は一九八九年一月七日で、ちょうど、昭和天皇が崩御された日でもありました。
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トラックと接触し、右手を35針縫う
み言を聴いてから、「先祖のために、神様のために、伝道しなければならないなあ。もっと人のために尽くさなければならない」と思うようになりました。
職場でも、今まで以上に人に尽くすには尽くすのですが、教会に導くことは簡単ではありませんでした。そのうち、伝道できないことに対して焦りが出てきました。
ある日の仕事の帰り道、いつものように私は自転車に乗って路上を走っていました。すると、後方から来たトラックと私の右腕がぶつかって、私の体は左の方に飛ばされ、病院に運ばれたのです。その事故で右手を三十五針縫いました。
事故後、警察官と話をしたとき、「奥さんは、よっぽど良いことをしていらっしゃるんですね。普通、トラックと接触したら、反対側(左側)に倒れるということは絶対ないんです。これまでの事故は全部、引き込まれているんですよ。引き込まれず、外に倒れたということはよっぽど良い行いをしているんですねぇ」と言ってくださいました。そう言われて、私が思いついたのは、先祖の土地を神様にささげようと準備中だったことです。そのためかなと思いました。
私は、それまでスーパーの中の魚屋で二十七年働いてきました。店頭に出すお刺身からホテルや旅館に卸す魚まで、私が調理してきました。でも、縫った自分の手を見ながら、「この右の手を切られたということは、神様が、そうしなければ私が仕事を辞めて伝道に励もうとしないだろうと思われたのだ」と自分なりに悟り、すぐに職場に連絡を入れたのです。
職場からは「中洲さん、そんなこと言わないで……。何か月かかってもいいから、働いてください」と何度も止められました。このスーパーは本来、五十五歳が定年なのですが、私の場合は五十七歳になっても働かせてくれていたのです。頼りにされてありがたかったのですが、私は心を堅く持ち、泣きながら「辞めさせてください」と訴えたのです。
こうして、二十七年お世話になったスーパーを辞め、神様や真の父母様に親孝行したいと思い、必死に伝道に励みました。このときが、五十七歳でした。
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60回訓読後、夫は60年続けてきたたばこを吸わなくなった
二年前から教会では『原理講論要約訓読チャート一時間用』を全体で訓読するようになりました。私は、どちらかというと、本を読むのが苦手でした。しかし、決意して一気に訓読するようにしました。そうしたら、六十回の訓読を終えたとき奇跡が起きたのです。
実は、夫はみ言を聴いていても、たばこをやめられずにいました。私が「お父さん、やめようね」というと「分かった」とは言うのですが、長年の習慣はそう簡単に断ち切れるものではありません。ところが、私が六十回目の訓読を終えたとき、ぴたっとたばこをやめてしまったのです。
夫は、このときのことをこう言っていました。
「これまでも何度も試みてはみたけれど、やめられませんでした。やはり、自分自身がやめようと思わないとやめられないと分かっていましたが、このとき決意できたのです。不思議ですが、それ以来、吸いたいという気持ちがぴたっと、なくなったのです。たばこの臭いも気にならないし、吸っている人もうらやましくないのです。それまでできなかったのに……。
そうしたら、家内が『チャートの訓読を六十回終えたよ』と言うものですから、これも真の父母様のおかげだなと思いましたねえ」
義父はたばこの好きな人で早くに逝きました。義母はそのたばこの煙の影響なのか若くして肺がんで他界しました。ですから、夫には長生きしてもらうためにやめてほしかったのですが、六十年間も続くと、簡単にはやめることができませんでした。私は本当に訓読の力、み言の力というのはものすごいなと実感しました。
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娘と共に親戚に自叙伝を配布
私たち夫婦は三万双の既成祝福を受け、広島にいる娘は三十六万双の既成祝福を受けることができました。日頃から娘とは、よく神様や真の父母様の話をしています。父母様がご苦労していらっしゃれば、「一緒に祈ろうね」。摂理のときは「お母さん、頑張らないとね」「そうだね、神様を何としてもお助けしないとね」と電話で交わしながら今日まで来ました。お互いに励まし合いながらみ旨の道を歩めることほど、うれしいことはありません。本当に幸せです。
自叙伝は、私も娘も四百三十冊配り終えました。天福函も共に二つ勝利することができました。自叙伝配布に当たっては、娘から「お母さん、氏族的メシヤを勝利するためにも自叙伝配布は必ずしたほうがいいよ」と言われていました。私は、自叙伝を配らなければならないとは思っていましたが、娘には「いや、お母さんはいいから、自叙伝はあなたがしてくれたらいいんだけど」と言ったのです。すると、すぐに娘は親戚に自叙伝を送ってくれました。
数日後、夫の従兄弟に自叙伝が届くと、私のところに電話が来ました。「みどりさんが送ってくれたあの本は素晴らしい。ぼくもあんな自叙伝を書いてみたい」と喜んで話してくるのです。従兄弟は戦後、台湾から引き揚げてきた人で、苦労人です。読んで喜んでくれる従兄弟を通して、私もうれしくなり「ああ、氏族もこんなに喜んでくれるんだ。これからは、地域の人にも統一教会を証すために配らないといけないなあ」と思ったのです。決意したら、あっという間に二か月で配り終えました。あれほど教会の話となると一線を引いていた近所の人も、「おまんさーとこの教祖さんは素晴らしいね」と言うようになり、受け入れてくれたのです。
自叙伝を配ってからは、真の父母様が九十三歳で世界平和のためにご苦労されていること、祝福のことなど、何でも話ができるようになり、統一運動のビデオを見せたりもしています。
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夫のがんが見つかる中、79歳で婦人代表に
娘が「お母さんも私も自叙伝配布と天福函を勝利したので、これから新しい出発だよ」と言ってくれて、「本当にそうだ」と決意したとき、なんと夫の肺にがんが見つかったのです。
夫が八十二歳でたばこをやめてから八か月後、八十三歳になってからのことでした。
私は、「これからは夫の看病をしなければならない」と思い、教会長に夫の病気のことを伝えると、返ってきた答えは「中洲のお母さん、婦人代表をしていただけますか?」でした。
このとき私は七十九歳です。驚きましたが、何か意味があるのだろうと思い少し考えました。「夫がこんな状態なのは教会長もご存じ。にもかかわらず、そのようにおっしゃるということは、より大きな願いのために生きてほしいということなのだろう」と思い、引き受けました。
その後、夫は肺の手術を受けましたが、幸い他の器官に転移していませんでした。また、夫は小学四年生から、軍隊で吹くラッパに魅了され吹き続けてきたので、肺活量も体力も人一倍ある人でした。医者からは、「ラッパのおかげで、快復が早いですね」と言われるほどで、看病をする間もなく退院してしまったのです。
退院してから、夫婦で清平の原理本体論教育(神様摂理史の責任分担解放圏完成宣布教育)に参加しました。清平で講義を受けながら、「きっと神様は、夫の病気をきっかけに夫婦でここに来させてやりたいと思っておられたんだなあ」と感じました。情心苑では「基元節を迎えるまで、夫婦で精いっぱいみ旨を歩みます」と神様に祈ってきました。
先日、夫が癌の検診を受けに行くと、医者から「もう、きれいですよ」と言われました。私たち夫婦は、八十四歳と八十歳になりましたが、人生これからだと思っています。まだまだ最前線で歩みたいと思います。
月夜の晩の稲刈り
私は八人兄弟の二番目で長女として誕生しました。兄弟みんな仲良しでした。女の子は私だけでしたから、両親からも兄からもとても愛されて育ちました。私は両親や兄を尊敬し、弟たちはかわいくて仕方なかったのです。
実家は農家で、両親の苦労を少しでも和らげたかった私は、日中は勤めに行き、みんなが寝静まった月夜の晩に稲刈りをしました。それが全く苦にならず、両親や弟たちが喜ぶと思うと、それが楽しみになっていました。
月夜の晩の稲刈りは、結婚して神様にその土地をささげる日まで続けました。ある日、夫に「神様はすごいね。私を少し楽にさせるために土地をなくしてくださったんだねえ」と言って笑ったことがあります。
また、私の結婚してからの趣味が貯金でした。節約しながら、わずかでも貯金し、それが増えていくのが楽しみでした。そのような私が、み言を聞いたとき、「先祖のために今まで貯金してきたのかもしれないなあ」と思うようになりました。
そうして私が献身的に歩むようになっていくと、たくさんの恩恵を受けました。それは、孫の進学から就職や結婚、出産などがうまくなされていくのです。神様のために生きるということは大変なこともあるけれど恵みも大きいなと思います。
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夢で教えてくださる父母様
私は真の父母様と直接お話をしたことはありません。しかし、何度か大会や修練会に参加した際、拝見する機会は頂きました。夢で、父母様にお会いしたこともあります。
十六万人の修練会のとき、私は何度も韓国に行く機会がありました。そんな中、お父様が私の家を訪ねて来られる夢を見ました。お父様は、「野原に行こう」と言って野原に連れて行ってくださいました。
また十年前、わずか一分ほどのお母様の夢を見ました。お母様が近くの市民会館で大会をされているのです。翌日、教会に行ってみると、お母様が来日されると伺いました。そして会場は夢で見た会場だったのです。
三年前にアメリカで宣布大会が行われるという頃、私は教会に祈願書をささげに行きました。それで教会長に、「娘がアメリカに行くようです」と報告すると、教会長が「お母さん、それはお母さんが行くということですよ」とおっしゃるのです。
私は教会長に「もう年ですから、行けないですよ」と言ったとき、ふと前日見た夢を思い出しました。
それは、お父様が「鹿児島から遠い場所で大会があるんだよ」とおっしゃるので、私は電車に乗って、お父様にお会いしたい一心でその会場に走って向かうという夢でした。
こうして結局、アメリカに行かせていただくことになりました。アメリカでは朝の訓読会に参加すると、お父様とお母様が手をつないで通路の真ん中を歩かれました。ちょうど、私のすぐそばでUターンされ戻っていかれましたが、目の前で父母様を拝見できる恵みに与かりました。
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高齢の食口が集う毎週金曜日の「桜の会」
霧島開拓教会では四年前から、毎週金曜日午前十時三十分になると、高齢の食口が十四、五人ほど集い、金曜礼拝をささげています。その礼拝を「桜の会」と呼んでいます。私は、この桜の会の婦人リーダーをしています。
礼拝には七十代から最高齢は八十六歳の食口が集うのですが、年配のかたがたは自分一人で教会に来るのは難しいので、若い人たちが送迎をしたり、そのついでに買い物も行ってあげたりするようになりました。
こうして李峻培教会長の指導のもとで、若い食口は、自分の親に孝行できなかった分、年配者を自分の親のように思い慕っていますし、年配のかたは若者たちを娘、息子として信頼しています。このような家族の関係が築けるようになりました。
「桜の会」は、夫の父母様にささげるラッパで始まります。教会長のご指導により夫は、毎回このラッパを吹く前に、鹿児島の義人・西郷隆盛と東郷平八郎にならって「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と言っています。こうして、「桜の会」の礼拝は霊肉界合同作戦で始まります。
李教会長の説教が終わると、お昼を食べながら和動会が始まり、最後に『原理講論要約訓読チャート一時間用』を完読して終わります。お昼を頂くときも、夫は「食事ラッパ」を吹いたり、ハーモニカで「ふるさと」を吹いて楽しませてくれています。
大きな音が出ますから、初めて参加する人はびっくりです。現在の教会長が就任されて一年半になりますが、教会長も最初は何事が起こったのかと驚かれました。でも今では喜んで、気持ちよく聴いてくださるものですから、夫も気持ちよく吹いています。
花見大会のときも、夫はラッパを吹きました。一般の年配のかたがたも寄ってきて、「懐かしいねえ。戦時中を思い出すよ」と言って涙を流しながら聞いてくれました。夫のラッパは李教会長が用いてくださることもあり、時とともに磨き上げられ、心に響く音色になっているように感じます。
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国のために命をささげた青年以上の心情で歩むべき時
私が、いつも思うのは、戦時中、特攻隊として戦場に行った若い立派な青年たちのことです。国のために命をささげていった勇士たちを思うと、その人たち以上に神様のために、父母様のために、ご先祖のためにと、自分は何も食べなくてもみ旨を頑張らなければならないと思わされます。
ここ鹿児島には太平洋戦争末期に編成された大日本帝国陸軍の特別攻撃隊に関する資料を展示している知覧特攻平和会館があります。この知覧の地から特攻隊として出陣するたくさんの青年たちを、鹿児島の人たちは何度、見送ったことでしょう。私はまだ幼い学生ではありましたが、戦争を体験した者としては胸痛いものが記憶として残っています。
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今、基元節を前にして、教会のみんなが真の愛で教会長を中心に一つにならなければならない時だと思います。教会長は私に「教会のお母さんとして頑張ってください」と言ってくださいます。
食口同士でも、まだまだ壁があるなあと感じます。赦せない思い、愛せない思い、さまざまあるでしょう。それでも、お父様が怨讐を愛し、赦していかれたように、父母様と心を合わせて超えていかなければならない時ではないかと思っています。
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●娘さんからのコメント
両親のような夫婦になりたい
広島教区三原教会 坂本みどり(36万既成家庭)
母が、八十歳になっても最前線で頑張れるのは、天地人真の父母様を心から愛し解放、釈放してさしあげたいと常に思っているからでしょう。その願いを果たすことが自分の喜びであると感じているようです。
母は、昔から「自分」のない人でした。小さなときから親を助けてきたためか、近所でも親戚でも誰かに何かがあれば自分のことのように、親身になって「母の愛」で接します。私の夫にも、自分の息子と思って見守ってくれています。私も母のようになりたいと目指しているところです。
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父は大らかな人です。「芸は身を助ける」といいますが、尺八やハーモニカ、ラッパを吹いて人を喜ばせるのが好きな父です。ですから、実家にはいつも訪問客が絶えなかったのを覚えています。
肺がんの手術をしたとき、これから手術室に運ばれるというのに、ぎりぎりまで見舞いに来てくれた親戚や看護師の前で、ハーモニカを吹き、「これから行ってきます!」と堂々とした姿と笑顔で向かうのです。
手術後も二日しかたっていないというのに、ハーモニカを吹き始めました。医者も看護師も、親戚もびっくりです。その姿を見て、反対していた親戚は、「この家はちょっと違う。運がある」と思うようになっていきました。
両親はとても仲が良くて、父は皿洗いや洗濯もして母を助けています。そして父は「母ちゃんは仏さんのようだなあ」と言って手を合わせます。
私たち夫婦も、「両親のような夫婦になりたいね」と言っています。
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